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神楽の動画西林国橋国橋の生家と椿備中神楽面神楽関連リンク集
神楽がいつ頃から始まったのかは定かではありません。
しかしかつて、神楽とは読んで字のごとく、神が楽しむ物として、
巫や巫欠に代表される特定の社人によって粛々と演じられていました。
そして時代を経るにしたがって神楽は神が楽しむものから人が楽しむ
ものになり、芸人による芸能となってきました。
  
民俗学的な分類では、神楽はおよそ四つに分類され、
全国に広がって現存します。

巫舞・巫女舞系

白の干早(ちはや)と緋色や浅黄の袴姿で三扇と鈴を持って
祈祷のために舞うのが神楽。
そもそもは巫舞・巫女舞系神楽は、神懸りを行う前技の清めの舞であったと言われています。

出雲神楽系

出雲神話にもとづいて脚色された神能で、西日本各地に流布しており、しかもそれぞれに地方色が濃い神楽です。
神楽とか神代神楽、あるいは太々神楽ともいわれています。

伊勢神楽系

伊勢神宮の外宮で行われた湯立神事が源流といわれ、清めに主眼があるか祈祷に主眼があるかは別にして、ほとんど全回的に分布している一般的な神楽です。湯花神楽とか雷月神楽ともいう呼び方もされています。

獅子神楽系

俗にいう獅子舞で、悪霊や厄災を祓う祈願を託して行われます。

さて、
備中神楽ですが、この分類的には、巫舞・巫女舞系と出雲神楽系の複合的な神楽と言われて言います。また、西林国橋以前の神楽と西林司橋以後
の神楽では、同じ神楽でも大きく趣が異なる物となります。

西林国橋(にしばやしこっきょう)は、明和元年(1764年)、高梁市福地に生まれました。自身が神官で、青年期には京都へ出て国学を学びます、このころの京都は上方あたりでは諸芸が盛んな時代であり、能・狂言・歌舞枝・浄瑠璃・落語・曲芸などが円熟期を迎えていました。
国橋は、そうした京の諸芸をつぶさにみて神楽の再編成を考えたのだろうと考えられています。

国橋は記紀を中心に「
天の岩声開き」と「大国主の命の国譲り」「素戔鳴(すさのお)の命の
大蛇過治
」「吉備津」などの神話をとりあげ、『吉今和歌集』を中心にいくつかの和歌を引用し、さらに既成の諸芸諸要素を取り入れて神楽の演劇化をはかりました。これがのちに神代神楽と呼ばれるようになりました。

また、それまで神官が演じていた神楽も、国橋の神代神楽登場と共に神楽を舞う玄人「
神楽太夫」が登場、熟練の芸を競うようになりました。

一般的には、神代神楽の「国譲り」と「大蛇退治」を中心に、前段に
榊舞導き猿田彦の舞を加えて秋祭りなどに奉納されるかぐらを「宮神楽」といいどこでも見られる神楽です。
また「
荒神の式年神楽」と言われる神事色の強い神楽も加えた総称が「備中神楽」と言われる物です。






  

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