▲観光案内所トップページへ  ▲歴史探訪トップへ 
前のページ  1.笠神の文字岩 次のページ

一九九二(平成四)年三月、備中町西湯野(びつちゆうちようにしゆの)の県道沿いに、
文字岩のレプリカを設置した「笠神文字岩展望公園(かさがみもじいわてんぼうこうえん)」が
完成した。わが国の舟路(せんろ)の開発記念碑(きねんひ)としては最古のものと言われる、
鎌倉(かまくら)時代の「徳治二年(一三〇七)」の銘(めい)の入った笠神の文字岩は、
田原(たばら)〜笠神〜小谷(おだに)の約八キロメートルと推定される区間の開発の
願文(がんもん)を巨岩に刻んだもので、国の史跡に指定されている。同区間の開発の
目的は、備中や備後の北部で産出する鉄の輸送にあったものと考えられている。

現在、文字岩は新成羽川ダム直下の田原ダム湖の水面下となり、見ることはできなくなった。
文字岩の銘文(めいぶん)を要約すると、次のようになる。笠神に船路(せんろ)をつくったこと
徳治二年七月二十日に始めて、八月一日に工事が完成した。笠神龍頭(りゆうず)あたりの
瀬十余か所は、日本でも並ぶものがない難所なので、仏の加護を祈(いの)らないわけには行かない。

よって、ほうぼう寄付を集めてまわり、十余か月、ついに瀬をならし工事を完成させた。

募金の責任者 成羽善養寺(ぜんようじ)の僧尊海(そんかい)
工事の責任者 奈良西大寺(さいだいじ)の僧実専(じつそん)
工事を計画した者 四郎兵衛(しろうべえ)
現場の技術責任者 伊行経(いのゆきつね)

「猿尾」

高梁市落合町阿部の落合橋の下付近には、江戸中期に造られた、県内最大級の高瀬舟の船着き場の堤防・猿尾がある。

猿尾は高瀬舟船着き場本体の上流に設け、流れを緩めた石垣で、昭和中期までは高梁の各所で見られたが現在数はとても少なくなった。落合橋付近の猿尾は高梁川右岸に築かれ、長さ約五十材、幅五材、高さ二材。下流先端部約十材には、もう一段、一材前後の石が積-まれている。

一帯には当時市場があり、一六七〇年前後、備中松山藩主水谷家が、船着き場の一環で整備した。県内には二、三材前後の小規模な猿尾は残っでいるが、これほど大規樟なのはほかにないという。

<出典:高梁歴史読本 社団法人高梁青年会議所発行>




  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所
▲観光案内所トップページへ  ▲歴史探訪トップへ 
前のページ  2.成羽川の高瀬舟 次のページ

笠神の舟路はまもなく閉鎖(へいさ)され、江戸時代になって一時期開通したこともあったが、
成羽川で江戸時代を通して開通していたのは、坂本川と合流する田原・惣田河岸
(そうだいかし)から下流であった。吉備高原の村々からの物資は、人々の肩や牛馬に
よって近くの河岸におろされ、そこから舟に積み込まれた。成羽まで下った物資は、
そこで積み替えられた。

継船制(つぎぶねせい)と呼ばれる制度である。成羽からは、吹屋往来(おうらい)を通って
運ばれた備中や備後(びんご)北部の鉄、吹屋の銅やベンガラのほか、米・大豆(だいず)・
小豆(あずき)・煙草・まきや木炭なども積み込まれた。成羽から下る舟は、運上銀
とよばれる税を勘定所(かんじようしよ)へ払って、切手札(きつてふだ)とよばれる証明証を
受け取り、松山藩との境にある境谷(さかいだに)の番所で荷改めを受け、高梁川河口の
連島をめざした。連島からは塩などを積み込んで帰った。成羽の領主山崎(やまさき)氏も、
陣屋前の総門(そうもん)から、舟に乗って参勤交代の旅に出た。

<出典:高梁歴史読本 社団法人高梁青年会議所発行>




  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所
▲観光案内所トップページへ  ▲歴史探訪トップへ 
前のページ  3.高梁川の高瀬舟 次のページ

高梁川の本流でも高瀬舟は活躍(かつやく)していた。

松山〜新見の舟路が本格的に開発されたのは十七世紀中頃のことで、備中松山藩主
水谷勝隆(みずのやかつたか)によるものであった。一八四〇(天保」」)年ころには、新見
から下る舟は、原則として毎月六度であった。
舟は午前八時に出発し、その日のうちに松山に着いた。一七五四(宝暦四)年には、一隻
(そう)の積み荷の上限は、米ならば三斗(と)五升俵(しようだわら)で四〇俵(ぴよう)、
四斗俵で三六俵(一俵は約六〇キログラム)、割鉄(わりてつ)(鉄を棒状にしたもの)ならば
五五束、旅客ならば三〇人と決められていた。松山から下る舟は大型になり、荷は上流より
五割ほど多かった。新見からの積み荷は、松山河岸問屋の舟に積み替えた。継舟制である。

この制度は、.水量にあった上流の小型舟から下流の大型舟へ積み替えることのほか、
税収入の確保と松山藩に所属する舟や城下の問屋の保護にもあったとされている。
しかし、積み替える手間がかかっても、運上銀を納めても、牛馬を用いた陸上での輸送と
比べると、舟でのそれは、はるかに大量に、かつ安価(あんか)に輸送できるのであった。

例外として、新見藩主の荷で売買に関係ないもののみ、直通が認められていた。
松山藩では新見藩との境の井高(ドヘ  え)と、松山の上手の辻巻と、下手の青木に番所を
設けて、税を徴集(ちようしゆう)していた。その年額は一七三九(元文四)年から五年間の平均で、
年間約二五貫文(かんもん)であった。高瀬舟の隻数は時代によって変化したが、舟の営業権
である舟株(ふなかぶ)はほぼ定まっていたようで、一七四四(延享元)年には、松山は」〇三株
とあり、ほぼ同じ時代の一七五六(宝暦六)年には、成羽は二四株であった。松山の高瀬舟は
高梁川を下り、約九キロメートルの高瀬通(たかせどお)し(運河)を通って下島に着いた。












<出典:高梁歴史読本 社団法人高梁青年会議所発行>




  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所
▲観光案内所トップページへ  ▲歴史探訪トップへ 
前のページ  4.明治以後の高瀬舟 次のページ

高瀬舟は明治・大正時代にも雄姿(めうし)がみられた。

明治になってからは継舟制も廃止(はいし)され、上流の舟が瀬戸内海を越(こ)えることも
可能となった。積み荷であるまきや木炭の需要(じゆよトつ)の増加にもともなって、
隻数も増加した。しかし、トラック輸送の開始や、一九二八(昭和三)年の伯備線開通により、
高瀬舟は輸送の主役から次第に離(はな)れていった。江戸時代から続く旅客の輸送も
やがて行われなくなった。高瀬舟に乗って、讃岐(さぬき)へ金毘羅参(こんぴらまい)りをし
ていたのも、昔のこととなった。

<出典:高梁歴史読本 社団法人高梁青年会議所発行>































  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所
▲観光案内所トップページへ  ▲歴史探訪トップへ 
前のページ  5.高瀬舟の構造 次のページ

高瀬舟の構造高瀬舟は、水深の浅い河川の通行に適した、企長約十六メートル、
幅(はば)約ニメートル、帆柱(ほばしら)の高さ約八メートルの平底の木造舟で、帆柱
の横木にはった帆は、綿布(めんぷ)で約三〇平方メートルであった。下りは、サキノリ、
ナカノリ、アトノリ、の三人の船頭(せんどう)が、上りは、サオサシ(親方)一人とツナヒキ
三人の、計四人の船頭が必要であった。

船頭の間で歌われていた高瀬舟歌(下りの歌)
ヤーレ五万石でもヨ松山様はヨー
ヤレー城のふもとにヨー舟が着くヨー
ヤーレ春の日長にゃヨー高瀬で下りゃヨー
ヤレー谷のうぐいすヨーつれて鳴くヨー
ヤーレ鳴いてくれるなヨー谷のうくいすはヨー
ヤレー鳴けばこぐ手のヨi力が抜けるヨー
『総社市史』民俗編高梁市下町の観光駐車場(ちゆうしやじよう)には復元された高瀬舟が、
向(むこう)町の郷土資料館には、縮小して復元されたそれと、その諸道具が展示されている。




<出典:高梁歴史読本 社団法人高梁青年会議所発行>




  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所