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定林寺(じょうりんじ)

曹洞宗格地寺院で、寛永二〇年(一六四三年)、備中松山藩主水谷伊勢守勝隆公が下館定林寺をこの地に移し、備中国僧録所となった。本尊は釈迦牟尼仏である。境内には水谷勝隆公及び三代勝美公の二基の五輪塔がある(市指定重要文化財)。二代勝宗公は江戸に残し泉岳寺に葬られている。

松山踊りは勝隆公の時、慶安元年(一六四八年)踊り始めた。水谷公三代は玉島新田の開発や高梁川の船通し等開発に努力し、寛永十九年(一六四二年)、五万石で入封し、元禄六年(一六九三年)除封になった時の検地高は十一万石にものぼった。

(情報元:城下町備中高梁神社寺院めぐり 高梁観光協会発行)



曹洞宗格地寺院で、寛永20年(1643年)、備中松山藩主・水谷伊勢守勝隆が、下館(茨城県)定林寺をこの地に移し、備中国僧録所となった。
 本尊は釈迦牟尼仏。境内には水谷伊勢守勝隆及ぴ三代勝美の二基の五輸塔がある。寺宝に水谷勝隆・勝宗父子の画像その他がある。
水谷3代は玉島新田の開発、高梁川の船通し、牛市場の開設、城下町の完成、松山城の修復などを成し遂げた高梁市最大の恩人である。

(情報元:高梁観光百選 高梁観光協会発行)



定林寺墓地内にある水谷家初代、水谷勝隆3代、勝美の暮塔(市指定重要文化財)





  

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