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有終館 旧制高梁
中学校
順正女学校 キリスト教
の伝道
新島嚢
と高梁
キリスト教の
受難と発展


高梁は江戸時代から備中の学問の中心であり、有終館は松山藩の藩+の教育機関である藩校として知られている。一七四六(延享三)年に藩主板倉勝澄が学問所を設けたのがその始まりであるが、藩校として盛んになるのは藩主勝政のころである。勝政は芦田利兵衛(黙翁)に学校の建築を命じ、彼を学頭に任じた。校名を有終館と定めたのもこの時である。しかし、藩校は二度火災にあって焼失し、しばらくは仮校舎の時代が続いた。

学問を好んだ藩主勝静のとき校舎を新築し、山田方谷らの漢学者を起用して有終館の面目を一新した。方谷は学問の指導だけでなく武芸も奨励し、西洋の砲術も家臣に伝授した。方谷のあと学頭になったのは、方谷の門人の進鴻渓や三島中洲である。有終館での学科は、四書五経などの漢学が主であった。そして、日本の歴史を学習させて政治についての考え方を培うようになっていた。また、剣術・槍術・弓術・馬術・砲術などの授業もあり、生徒は文武両道を修めるようになっていたのである。

書物は素読から始めて返読・輪講など、やさしいものから難しいものに段階をおって進むようになっていた。素読のときは、八時から十二時まで先生がつきっきりで教え、午後二時から四時まで復習が行われた。毎月読み終わった書物のうち一冊について先生が指定した所を読み、成績が評価されていた。有終館では漢学だけでなく洋学も取り入れていた。また、学問、武芸の修業に三つの級を設けて両方の三級がそろわなければ御口見えを許さず、給与にあたる扶持米も給しないこととしたので、生徒は勉学に努めたと言われる。

松山藩には有終館学頭のもとに四つの郷校が設けられていた。このうち野山学問所(吉備中央町)は方谷が進言して設けられたものである。鍛冶町(高梁市)、玉島、八田部(総社市)の郷校は庶民の子弟の教育にあたった。一八七一(明治四)年廃藩置県となり、創立以来一二六年の伝統を誇り、多くの人材を育てた藩校有終館は閉校となった。現在の高梁幼稚園の位置が有終館跡であり、方谷手植えの松が面影を残している。




<出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行>


わが国の産業が大きく発展した明治のなかばには、岡山県には県立の男子中等教育機関は岡山中学(岡山朝日高校)だけであった。しかし、硝胤蝋郭の頃から・県下では平等に中等教育が受けられるようにとの気運が高まった。一八九五(明治二八)年の県会では、多数の議員の賛成によって中学校を増設しようという動きがさかんになり、その結果、備中、美作にそれぞれ中学校を設置することが決まった。こうして、備中では高梁中学校が、美作では津山中学校が設立されることになったのである。

一八九五(明治二八)年に設立された高梁中学校は、はじめ向町の安正寺を校舎としていたが、狭いため、一九〇〇(明治33)年備中松山藩の御根小屋跡に新校舎が落成した。以来、備中の教育の中心として輝かしい歴史と伝統を誇ってきたのが旧制の高梁中学校である。また、生徒が広く全県下から集まり、寄宿舎に入り家庭的な教育を受けたので、高梁中学校の寄宿舎は全国的に有名となり、学習院長乃木希典がわざわざ人を派遣して視察させたほどである。




<出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行>

岡山県で最初にできた女学校が高梁の順正女学校である。一八八一(明治一四)年、福西志計子・木村静により設立されたキリスト教に支えられた私立の女学校であるむ最初は裁縫を主とし、これに読み方と習字を加え、おりおりに生徒に講話を聴かせる教育内容であったが、しだいに教科目が充実していった。とくに、一八八五(明治一八)年には文学科が設置され、女学校としての基礎が固まりこの地方の女子教育の中心となっていた。

順正女学校は設立当初は向町にあったが、一八九五(明治二八)年には頼久寺町に移り、さらに一九〇八(明治四一)年に伊賀町に校舎と講堂を新築して移転し、頼久寺町の旧校舎は争徹餓に当てられた。寄宿舎は現在、「順正寮跡」として県指定重要文化財となっている。一九二一(大正一〇)年には県立の順正高等女学校となり、一九四九(昭和二四)年には高校再編成によって旧制高梁中学校とともに統合されて県立高梁高等学校となった。現在は、かつての順正女学校の位置には順正短期人学が設置されている。



<出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行>
江戸時代を通じて強力に禁止弾圧されてきたキリスト教は、開国後宣教師が来日するようになり、一八七三(明治六)年禁教令が廃止されると全国的に発展してくるようになった。自由民権の思想とともにキリスト教が広まり京都の同志社や札幌農学校などを源として多くの有名な思想家が活躍するようになった。時代の流れは、大きく変わったのである。高梁の町に柴原宗助らの努力でキリスト教が初めて伝えられたのは、一八七九(明治一二)年十月四日であった。

柴原宗助は、井原で生まれ本町の酒造業の家を継ぎ第一回岡山県会議員に当選し、自由民権運動をおこして国会開設のための運動をすすめていた。彼は、岡山のキリスト教指導者を高梁に招いて講演会を開くため努力を重ね、金森通倫や中川横太郎、アメリカの宣教医であるJ・C・ベリーなどが毎月高梁に来てキリスト教伝道のための講演会を新町の重屋旅館で開くようになった。そして、彼らはキリスト教の福音だけでなく、ヨーロッパの医療・文化・音楽・女子の教育についての知識を高梁にもたらしたのである。この宜教医などの影響があってか、高梁では、多くの医師たちがキリスト教に関心を持つようになり、高梁での近代的医療が発達する基礎つくりにもなったと言われている。

当時の高梁の町では、江戸時代の封建的な風習など古いものが残っていて、キリスト教に関心を持つ人々の間に封建的な人間関係、特に身分制度や女性に対する差別への批判が生まれ、社会を新しく変えようとする動きが出てきたのである。なかでも柴原宗助は、一八八二(明治一五)年、キリスト教の洗礼を受け、女子教育を支持し、順正女学校の初代校長を勤め、病院の発起人になるなど町の発展に尽くした人物であった。


<出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行>
一八八O(明治一三)年二月には、同志社を創立した新島嚢が、キリスト教伝道のため高梁にやって来た。彼は二月十七日から二十日まで高梁に滞在し、当時の高梁小学校附属の裁縫所で中川横太郎らと講演をした。初日には約三百人の人々が集まり、二日目になると四百人に増え、会場はいっぱいになったと言われる。こうして、新島嚢の高梁訪問は、高梁の町の人々に強い印象を与え、高梁におけるキリスト教の歴史的伝道者の一人となった。新島嚢の講演に深く感銘し、伝道に影響を受け活躍した女性に福西志計子と木村静がいた。二人は、岡山裁縫伝習所を出て、一八七六年当時の高梁小学校に新設された裁縫所の教師となり、十四歳以上の女子の教育、訓練に力を尽くした。

彼女たちは、キリスト教に関心をもち、のちに「キリスト教婦人会」をつくり、高梁の町の婦人たちに呼びかけ、たびたび会合を開いた。信仰に生きるか、裁縫所の教師を続けるか悩んだあげく、裁縫所の教師を辞め、一八八一(明治一四)年に順正女学校を創った。この時、福西志計子三十四歳、木村静は、四十四歳であった。このようにして、高梁の教会の人々は、キリスト教に根ざした女子教育をすすめ、岡山県における最初の女子の教育の機関が高梁に生まれたのである。

<出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行>
高梁のキリスト教会は、日本企国の中でも激しい迫害を受けた教会の一つである。現在の教会堂には一八八四(明治一七)年の迫害を受けたとき、投げ込まれた石が保存されている。この年の六月二日と七月六日の夜は迫害のピークであった。集会の説教中に砂や石が投げ込まれ、説教を中止したが群衆は数を増し、大石、蛇、蛙を投げ込み、ランプをこわし、戸や障子を破壊するなど乱暴を繰り返した。しかし、このようなきびしい迫害は信徒を燃え上がらせキリスト教を信仰する人々の結束をいっそう強くした。信徒たちは、迫害されても恨むことをせず祈り、有漢、近似、成羽、新見、豊野、吹屋などの近隣の地域の人々の伝道に当たった。こうした動きの中で人々は、どんな宗教を信じてもよい自由のあることに気づいていったのである。

迫害にあいながらも、近隣の地域への布教活動が強まり、教会の組織ができ上がり一一八八一(明治一四)年三月仮教会が設立し、そしてキリスト教の福音を受ける人は減るどころかいっそう増え、有名な人物が育成され活躍するように玄っていったのである。偉大な学者であり思想家であった綱島梁川もその一人である。彼は、有漢のキリスト教講義所で講義を聞いたり、毎週有漢から高梁キリスト教会を訪れてキリスト教の研究や英語の勉強をし、向学心も強く積極的に研究につとめた人物であった。

1889(明治二二)年夏、高梁へ夏期伝道のためにきた山室軍平(阿哲郡哲多町本郷の出身。同志社を出て日本救世軍司令官となり、社会事業貢献)は有漢にも足を運んでおり、梁川は山室軍平の影響を特に強く受けたと言われている。また、明治の社会事業家として有名な留岡幸助も高梁キリスト教会で洗礼を受けた一人である。同志社を卒業後、一八九九(明治三二)年、東京巣鴨に非行少年のための家庭学校を創設し、慈善事業家として指導にあたり、一九一四(大正三)年北海道で家庭学校分校創設などに専念し活躍した人物であった。

このように、高梁のキリスト教会は、日本第一流の人々の伝道活動によって設立され、近郊の地域にしだいに影響を及ぼし、全国に名を知られるような人物が多く育ったのである。高梁教会を中心にして西洋の近代的文化が近隣の地域に広まり備中の文化が開けていく要因になったとも言えるのである。現在残っている古同梁の教会堂は、一八八九年当時のキリスト教信者の寄付で建てられたもので福西志計子、留岡幸助を育てた教会として、キリスト教に関心をもつ人々の心の支えになっている。岡山県で最も古い教会堂として県指定の重要文化財となっている。


<出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行>




  

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